こんにちは、永田です。(@ trombonemusic11)
11月末に東北、宮城・仙台を訪れました。
乗る予定の飛行機が夜だったので日中は時間があり観光をしようと思っていたのですが月曜日だったため公共の観光施設がどこも閉館でした。私は一番関心があることは戦争なのだと自覚している。いつも旅に出るときはその地域の歴史や戦争のことを調べて行くことにしている。今回は仙台空襲について調べているうちに戦災資料館があり月曜日でも開いていることが分かったので行ってきました。そこで理学博士の米崎茂さんのことを知りました。米崎さんの仙台大空襲の前後の手帳を読み、現代につながる大事なことが書かれていたのでシェアしたいと思います。
仙台を訪れたのは今回が3回目でした。私は東日本震災が起きてから東北での転職も考えていた時期もあり、これからも関わりをもっていきたいなと思っています。東北の景色、仙台の牛タン、ずんだ餅、東北の海の恵みが好きです!
初めて東北に行った時のこと。
東北との縁 その①
東北を訪れること
東日本大震災がなければ私自身も東北に行くキッカケはなかったかもしれない。多くの人々の考え方が変わるキッカケとなった出来事なのかもしれない。仙台の街を歩いていても、独り言を発している老年の女性がいたり、心の復興はこれからだと言うことを深く思いました。そういったことからも、まだ東北に言ったことが無い方が多いと思うので、たくさんの方に訪れて欲しいなと思っています。
私も音楽で心の部分に関わっていける体制を作りたいと考えています。
2回目に東北に行った時のこと
東北との縁 その②
東北のボランティア減少による影響
2011年3月11日以降、たくさんのボランティアの方が現地で活動されました。全国社会福祉協議会の福島、宮城、岩手の3県の集計では2011年~2012年の間はボランティアが1万人以上訪れる月もあるが、年々減少して、2017年では毎月約500人に減少している。実際にはボランティア活動に参加したい人がたくさん居るが金銭的問題で継続が難しいという現状なのだそうです。このボランティアの減少に反比例して増加しているのが孤独死なのだそうです。ボランティアの方が多いときはそれだけ多くの人の目があり、繋がりやコミュニティがあったということです。ボランティアの減少によってコミニティが失われてしまったのでしょう。ボランティアをしたいけど金銭的な理由でできないという活かされていない人々の思いを行政の力でサポートして上手く活性化していけないものだろうか。
以前、女川町にも行きました。
東北との縁 その③
仙台空襲
1945年7月10日0時3分、約100機のB29爆撃機による無差別空襲が行われた。
戦災資料館で知った理学博士の米崎さんの手帳の記録を引用してお伝えしていきます。
米崎さんは東北帝京大学の理学部の学生でした。学徒出陣では文系の学生が兵隊として戦地へ向かうのを見送ったが、昭和19年9月に大学卒業を6ヶ月切り上げられて、金属材料研究室に務めることとなった。しかし卒業後すぐに赤紙が来て、四国の山砲隊に所属したが、やせ細った身体で重たい大砲を山に担いでいくことなどできなかった。上官には『貴様より馬の方が貴重だ』と馬の尻の掃除を命じられる始末。戦時研究員として登録されていた為、隊長に呼び出されて『殺人光線を早く作れ』と命じられて帰郷することとなった。そして金属材料研究室で再び務めることになった。万歳と言って死を覚悟したのに帰ってきたことで周りから非国民扱いを受けたという。
米崎さんは自宅に自作した短波無線機を持っていてアメリカ軍の情報をすべて聞いており、沖縄が玉砕したこと、新聞やニュースでは言わないことを知っていたという。そして仙台空襲の7月10日が来た。仙台は軍都であり空港や高射砲もあるのに敵機への抵抗はなかったという。空襲の後の4日間でとりあえず回収した死体は834体、身元不明が180体あったという。米崎さんは空襲後の仙台の街を残そうとカメラで撮ったという。その時に憲兵に見つかり、スパイ疑惑で取調べにあったという。その時に自宅の無線機のことが脳裏にうかび、不味いと思ったとき空襲警報がなり、釈放されたという。
化学・科学で救われること
米崎さんの情報収集能力がずば抜けて高いことが分かる。戦後の食糧不足の時には塩が1升と米2升が同じ価値だったという。宮城の塩釜には工場が停止していたこともあり電力が余っていたという。海岸にある倉庫で鉄版を加工して鍋を作り、ニクロム線を熱源とした電気製塩を始めたという。また石鹸も不足したことから苛性ソーダで石鹸を作ったり、マッチも作ったという。アメリカ軍から配給で豚の餌にも近い脱脂大豆の粉、雑穀粉の配給があったときも海水で練って生地の両端に100Vの電流を流して見事にパンを作ったそうです。
米崎さんは戦後、アメリカにも行き、様々な大学の研究室を見てまわり、どこに行っても君のような研究者が欲しい、今の給料の10倍出すといわれたそうです。その様な中で自分は日本に帰り研究を完成させなければアメリカに負けてしまうと思い帰国後研究を重ねて国内外特許220件を取ったそうです。国際化学会議にも冒頭での招待講演者として招かれ、鉛なし銅板についての講演をして大喝采を浴びた。スポーツならオリンピックの金メダル以上だが日本では全く評価されず出張旅費まで返納させられたそうです。この特許は世界の大製鉄所が競ってこの特許を使い製造するようになったが日本国内では発明者に無関心だった。
化学・科学技術を軽んじる日本
米崎さんはこんな事では日本の将来はない、優秀な研究者は日本から脱出するだろう。一部の人が私腹を肥やし科学技術者を軽視する風潮は今も日本に存在する。日本の政治家や官僚が多様な芸能人を文化人として表彰するが今でも科学には無知である事は情けない。外務省の通信の暗号は大丈夫だろうか。第二次世界大戦では真珠湾攻撃から終戦まで日本の暗号無線がすべて連合国側に解読されていたことが最近分かった。と最後に手帳に記してあった。
今電気があること、電話ができること、スマホ、電車、車、全て技術者の研究の賜物です。今年、V6の学校へ行こうの未成年の主張で、中学生が日本の基礎研究への助成金が少ないことを主張していた。車の自動運転の技術、ロボット技術、通信技術、宇宙開発など私達の未来を作る技術を利用するだけではなく、もう少しその発案者や技術そのものに関心を持ちましょう。どのような技術、機械でも血の通った人間が悩み、研究して生み出していることを忘れずにいたいですね。
仙台名物の牛タン定食!